7月9日-10日、一泊で先輩3人と長野に一泊旅行をしてきました。
行程は、善光寺~北斎館~小布施牧場~岩松院~戸倉上山田温泉(泊)~松代大本営跡~眞田神社~藤沢。善光寺では、御戒壇巡りをしましたが、真っ暗闇で本当に恐かった(-_-;)
戸倉上山田温泉は、昭和にタイムスリップしたような温泉街で、先輩たちも「この雰囲気はいいねー」と言っていました。翌日のメインは松代大本営跡の見学でした。ちなみに松代大本営をウィキペディアで調べると次の通りです。
【ウィキペディアより】
太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、大日本帝国陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し、海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。1944年7月のサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。
初期の計画では、象山地下壕に政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤は脆く、舞鶴山地下壕に皇居と大本営を移転する計画に変更される。舞鶴山にはコンクリート製の庁舎が外に造られた。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。
そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。象山地下壕には政府、日本放送協会、中央電話局の設置が予定され、舞鶴山(当時は狼烟山と呼ばれていた)地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現宮内庁)として予定されていた建物が造られた。 戦争直後の新聞報道によれば、舞鶴山の建物は鉄筋コンクリート3棟からなり約600坪。廊下は地下壕へ連なっており、屋根は山に続き上空からは隠蔽された構造であった[1]。建物は現在も残っており、限定ながらも一般公開されている。とのことです。
松代象山地下壕のことを大本営跡と思っていたのですが、地下壕を見学(無料)したあと、隣にある「もうひとつの歴史観・松代」に入り(入館料200円)、学芸員さんと思われる方から、松代大本営について詳しく話を聞くことができました。そうしたら大本営跡は地下壕ではなく、そこから車で2-3分の所に大本営跡が建物として今も残されているとのことでしたので、現地を見に行きました。現在は、地震観測所として活用されているとのことでした。天皇陛下を避難させる予定だった建物と部屋を外からではありますが、見ることができ、とても貴重な一泊旅行となりました。しかし、車で移動中も外気温が36度を示すなど、厳しい暑さでした(^-^;