2024.5.8~10 会派視察(沖縄県)

 5月8日から10日の3日間、会派(民主クラブ)で、沖縄県を視察しました。視察の概要は次の通りです。

1. 沖縄県を視察先とした目的

 私たちの会派、民主クラブは、核兵器廃絶、恒久平和、世界から戦争がなくなることを希求する会派であり、藤沢市が実施している広島・長崎派遣事業が子どもたちにとって平和の尊さを実感する事業となっている状況も踏まえ、広島・長崎に原爆が投下される前、本土決戦までの時間稼ぎと評価されている「沖縄戦」の地である沖縄を訪問し、その事実や歴史について認識を深めること。

 また、沖縄に次ぐ第二の基地県神奈川の地方議員として、沖縄における基地返還の状況と返還後のまちづくりについて、その経済効果や雇用状況など、現地の状況について認識を深めることを目的として、今回、沖縄県を視察先としたものです。

2. 視察内容

【視察初日 5月8日】

(1)ひめゆりの塔・平和祈念資料館

 ひめゆりの塔は、1945年の沖縄戦で亡くなった、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒や教師のための慰霊碑で、同じ敷地にある資料館を見学しました。証言映像、当時の写真、戦後、ひめゆり学徒隊で経験した手記などが展示されていました。
 生徒たちは、本来実施される卒業式が戦況の悪化で中止になり、その時に、教師に引率されて、南風原の沖縄陸軍病院に動員されたとのことです。陸軍病院では、戦況が悪化すると連日負傷した兵士が担ぎ込まれ、最大2,000床あった病床も足りない状況だったといいます。その看護にあたっていたひめゆり学徒隊の生徒たちは、飯上げ(炊事場から病院までご飯を運ぶこと)や水汲み、傷にわいたうじ虫を取ったり、排せつの対応、麻酔なしの手術を受ける負傷兵の身体を押さえつけたり、出ている内臓を押し込んで、包帯でぐるぐる巻きにしたり、休みなく従事したとのことでした。

 戦況が悪化し、6月18日に「解散命令」が言い渡され、生徒たちは壕を出て、米軍の包囲網に放り出されることになりました。結果、136人が亡くなったとのことでした。米軍の捕虜になれば、乱暴されて悲惨な殺され方をすると言い聞かされていたため、捕まることより死んだ方がいいと皆が思っていたそうです。

 この資料館では、貴重な資料として、生き残った生徒が当時の様子を書いた手記が数多く展示され読むことができます。また、当時の様子を語る証言映像も視ることができます。平和学習といえば、広島・長崎が思い浮かびますが、沖縄戦も忘れてはなりません。ただ、後述しますアブチラガマでガイドをしている方(60代)いわく、沖縄戦での経験や記憶は、話してはならないことであったため、ガイドになるための講習を受けるまで、まったく知らなかったとのことでした。逆に言うと、それだけ、身内や知人が死んでいくことを目の当たりにして、自分が生き残ったことに後ろめたさがあったのではとのことでした。自決せず、米軍に収容されたことをについて、自決した仲間に対して申し訳ないと。生きることが希望とならない戦争は二度と起こしてはならない。説明してくれる方々は、口をそろえてそう言い、このことを伝えてほしいと言っておりました。

(2)平和祈念公園・平和の礎

 平和祈念公園には、平和の礎と資料館があります。平和の礎とは、国籍、軍人、民間人を問わず、沖縄戦で亡くなった方の氏名が刻印されている碑です。中には、誰々の息子などという刻印もあり、おそらく名前を付ける前の赤ちゃんの時に亡くなったと想像できます。平和の礎に刻印されている氏名は、もちろん民間人の多くが亡くなった沖縄県民が多いのですが、全国からの兵士、米軍の兵士も多く刻印されています。県ごとに氏名が整理されており、神奈川県出身者も刻印されていました。今になって、氏名が明らかになったなど、追加の刻印もされています。刻印者数は、2023年6月現在で、242,046人となっていました。
 また、公園内には、沖縄県平和祈念資料館が設置されており、沖縄戦に関する多くの資料が展示されており、修学旅行生も多く訪れていました。

【視察2日目 5月9日】

 視察2日目は、私の出身組織であります、自治労の沖縄県本部の役員の方に同行していただき、各地を視察しました。

(1)辺野古新基地建設現場

 辺野古新基地建設の様子が見渡せる、瀬嵩の浜において、新基地建設に反対する住民の一員として活動しており、この間の経過にも詳しい、東恩納名護市議会議員から説明を受けました。沖縄県知事の意向を無視して国の代執行で進められている現場を見ながら、この時も、ボートに乗って基地建設に抗議する団体が、現場や海上保安庁のボートに向かって、マイクを使って抗議をしていました。

 東恩納市議いわく、直接的な影響を受ける漁民に対しては、訴訟を避けるため手厚い保障をしているが、景観などの不利益に関しては基地建設後のこととして全く取り合わないとのことでした。従って、直接的に影響のあるダイビング運営者などが訴えるとのことでした。また、写真にもある、抗議するカヌーが入れないように設置している黄色のフロートは1メートルあたり1万円なので、現在設置されているのは10kmに渡るためフロートだけで1億円、波で移動しないためのアンカーも含めれば数億円、警備に税金をかけている。また、工事車両が出入りするゲートには、海外と思うようにビシッと整列した警備会社の方が並んでいて、この警備に1日2,100万円かかっているとのことでした。何がなんでも工事を進めるという感じが伝わってきました。

 碧い海で、ジュゴンや多くの生き物が生息し、ホープスポットに認定されている大浦湾をつぶしていいのか、いろんな意味で疑問に感じました。ホープスポットとは、世界に誇ることができるのに十分な科学的価値、文化的・歴史的・精神的価値、人間活動による影響をくつがえすことができる可能性のある海域、これから一緒に守っていこうとする地域のサポートがあると認められた場所が登録されるもので、アメリカの海洋学者が立ち上げたNGO団体「Mission Blue」が認定する世界的に重要な海域のリストです。

(2)嘉手納基地

 嘉手納基地は4,000m級の滑走路を有しており、視察した時も、戦闘機が飛行していました。その爆音はすごく、藤沢でも米原子力空母艦載機が岩国基地に移駐する前の騒音を思い出しました。それにしても戦闘機を見たいという人が多く見学していましたが、基地はなくなってほしいといいつつ、戦闘機は見ている人の多いこと、観光客なのかも知れませんが、複雑な思いでした。

 この嘉手納基地を見下ろせるところにある道の駅で、飛行場を視察しましたが、道の駅にも小さな資料館がありました。その中で、沖縄の基地建設は、本土決戦のためのものでもありましたが、その先を見据えた基地建設だったとのことです。沖縄を中心にして、対中国をはじめとしたアジア諸国に対応するためのものであったことが分かりました。

(3)チビチリガマ

 チビチリガマは沖縄戦において、「鬼畜米兵」と教育されていたことにより、米兵が現れた際に、出ていけば乱暴されて殺されると思い、集団自決が行われたことで有名です。写真にあるように、チビチリガマの入り口には、「見学者及びボランティアでの案内者へ」との看板があり、立入禁止、ガマの中には私達、肉親の骨が多数残っています。皆様がガマに入って肉親を踏み潰していることを私たちは我慢できません。と書いてあります。なので今回の視察においても中には入ることができないと当然思っていたのですが、自治労沖縄県本部からの連絡を受けて、遺族会の会長である、與那覇読谷村議会議員の取り計らいで、中に入ることができました。

 ガマの奥には、当時遺骨を納めたお墓のようなものがあり、会長は供えられて枯れていた花を取るなど、きれいにしていました。ガマの中には、当時、そこで生活していたことが分かる、お酒の瓶や鍋類、そして自決に使われた錆びたカマ、小さな骨なども残されていました。娘から殺してと言われた母親に対して、その母親がカマで頸動脈を一気に切らないと苦しむと殺し方を教えたとのことでした。このチビチリガマでは、83人が自決、2人が手榴弾で死んだとのことでした。

 そして驚いたのが、このチビチリガマでの集団自決の出来事が世に出たのが戦後38年だったとのこと。それだけ、助かった人が、生き残った後ろめたさによりしゃべれなかったというのです。会長も言いました。戦争は二度と起こしてはならない。そのことを皆さんも帰ったら伝えてほしいと。

(4)普天間基地

 普天間基地は、市街地にあるため、世界一危険な米軍基地と言われています。今回は、普天間基地が見下ろせる「嘉数高台」から見学しました。普天間基地の中心はヘリコプターであり、オスプレイが数多く待機していました。そして、「上大謝名さくら公園」のところに移動して、基地のフェンスから中を見ましたが、そこには土地所有者の「お墓」が現在もあり、米軍に申請をしてお墓参りをしているとのことです。基地建設当時、住民は米軍に収容されていたため、そのタイミングで勝手に本土決戦に向けて基地が建設されたとのことです。戦争で負けたということは、そういうことなのかも知れませんが、現在においては、その権利が復元されるべきで、1日も早い基地返還が望まれます。

(5)基地返還と経済効果

 沖縄県では、基地返還と返還後のまちづくりも進んでいます。その状況について、伊敷豊見城市議会議員から説明を受けました。移動する車内での説明でしたので写真はありません。

 返還基地跡地の事例としては次の通りです。

 ①桑江・北前地区

 1981年までに全面返還され、海浜公園やショッピングセンターが整備されたことに伴い、直接的経済効果は、返還前年間3億円に対して返還後は336億円と108倍に、雇用は返還前25人に対して3,377人と135倍となっているとのことでした。

 ②小禄金城地区

 1986年に全面返還され、土地区画整理事業が実施されたことに伴い、直接的経済効果は、返還前年間34億円に対して返還後は489億円と14倍に、雇用は返還前257人に対して4,885人と19倍となっているとのことでした。

 ③那覇新都心地区

 1987年に全面返還され、土地区画整理事業を実施。那覇市の新たな都市拠点づくりとして、公官庁庁舎、県立博物館、美術館、大型ショッピングセンター、アパートやマンションなどの住宅建設などに伴い、直接的経済効果は、返還前年間52億円に対して返還後は1,634億円と32倍に、雇用は返還前485人に対して16,475人と34倍となっているとのことでした。この現場は、車で通りましたが、モノレール、大型ショッピングセンター、マンションなど、開発で賑わいを見せていました。ただ、地元の人は沖縄戦で激戦地区だったため、当時のことを知っている人は、夜中になると幽霊が出ると言い、あまり住みたくない地区だそうです。

 ④今後の計画

 基地返還の計画もいくつかあるとのことですが、予定通りの整備に至っていない状況とのことでした。経済効果や雇用創出の予測はされており、地元にとって大変期待される取組であると思いますので、早期の進捗が期待されます。

 とかく、沖縄県民は、米軍基地があるから仕事があり、基地に依存しているといわれ、本州の住民は、そうなのかと勘違いしやすいのですが、決してそのようなことはなく、基地返還が進めば進むほど、経済が発展することが良く理解できました。

【視察3日目 5月10日】

(1)南風原文化センター

 南風原文化センターでは、沖縄戦の歴史、沖縄陸軍病院の再現、戦後、移民などのコーナーがあります。20分の沖縄戦、陸軍病院に関する映像も視ることができ、大変貴重な体験ができました。

(2)沖縄陸軍病院 南風原壕群20号

 ひめゆり学徒隊が従事した陸軍病院あとを視察しましたが、当時設置したベッドなどに使用されていた木材は、戦後必要だったので撤去されており、当時の様子を知るには文化センターとなります。ガイドさんの説明を受けながら、病院跡を見学しましたが、最大2,000人の患者へ対応したひめゆり学徒隊は寝る間もなく対応をしていたとのことです。特に、飯上げが大変とのことでしたが、今回、飯上げで移動した通路がほぼそのまま残っていたので、そこを通りましたが、途中窪んでいるところは、砲弾を受けたところということで、深くえぐれたところは仮埋葬地として遺体や体の一部を投げ入れ、本葬は行われなかったとのことでした。

 旧陸軍病院には、今回見学した20号の他、沢山の分院としての壕があったのですが、軟弱な地層であるため本格的な調査ができないままとなっているため、亡くなった方の骨などは数多く残っていると想定されています。また、ボランティアの方が山に入って発掘しているのですが、気候の良い時期は「ハブ」の危険があるので、冬季に作業をしているとのことでした。それでも、毎年新たな遺骨が発見されるとのことで、沖縄の山間には発見されていない遺骨がまだたくさんあるとのことでした。

 あるガイドさんの話では、子どもの頃、男の子は出てきた頭蓋骨をサッカーボールのように蹴って遊んでいた。それが当たり前だったと。やはり、当時の方々が、話せなかったことで沖縄戦が世に知られなかったため、戦後の子どもたちも何も知らないで遊んでいたのだろうと言っていました。

(3)アブチラガマ

 アブチラガマは全長270mで、戦況が悪化すると陸軍病院の分室となり、最大600人の負傷兵で埋めつくされたと言われています。ガマの内部は見学することができ、ガイドさんから説明を受けました。ガマの中には井戸があり、きれいな水が溜まっていましたが、当時はその上流にいた負傷兵の糞尿や血が流れ汚染され、それでも、その水を飲んでいたとのことでした。

 そして、愛知県出身の日比野さんは、空気穴から黄燐弾が投入され、大音響と共に跳ね飛ばされ、奇跡的に地下水の流れの所へ飛ばされたことで生き残ることができたと。その後、敗戦を疑いながらガマを出たといいます。そして、何度もアブチラガマを訪れ、自分だけ生き残って申し訳ない、今度生まれ変わったときは戦争のない世界でと言っていたそうです。

【所感】

 戦争で生き残ることは「生き残ってよかった」となるはずなのに、沖縄戦では、生き残ったことに後ろめたさがあったとのことでした。これは沖縄戦独特のことで、米兵に捕まれば、女性は乱暴されて殺されると言い聞かされていたから。でも、現実の米兵は治療をしてくれたし、言われてたものとは違った。何十年も言えなかった。身内や仲間が自決したから。だからこそ、沖縄戦のことを沖縄のことで終わらせるのではなく、日本の戦争の歴史としてもっと知られる存在であるべきと思いました。

 今回の視察でガイドさんに話を聞きましたが、沖縄戦で生き残った人の共通点としては「花火の音」を聞くことで、戦争を思い出すこと。攻撃されている音として、今でも花火の音はトラウマになっているらしいです。あと、戦闘機の音で、当時の空襲が思い出されるとのことでした。花火の音にそういう感覚を持つ人もいるということも心に刻みました。

 今回は、沖縄戦の経緯を中心に視察をしました。一方、沖縄戦は本土決戦への時間稼ぎとして、長野県松代市に「松代大本営」を建設していたと言われています。それを聞いて沖縄県民はどのような気持ちになるのだろうか。私は、昨年の夏、松代大本営跡を見学し、資料室の学芸員の方から説明を受けましたが、そのことを認識したうえでの今回の沖縄視察、とても重たい気持ちになりました。

 今回視察した内容は、大変貴重だったと思います。広島・長崎平和学習に加えて、沖縄での平和学習も必要ではないかと思いました。修学旅行の生徒たちにもたくさん会いましたが、藤沢からも訪れているのでしょうか?行っていないのであれば、是非、検討してほしいと思いました。

※以上、報告とします。


おおや徹

藤沢市のためにがんばります!

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